厳冬の大江山・依遅ケ尾山 |
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山頂での集合写真。 依遅ヶ尾山 標高540.0m 二等三角点があるはず。 点名:一ヶ尾 |
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山行日 | 2012年2月18日(土)〜19日(日) |
目 的 | @冬季の大江山と依遅ケ尾山登山とカニツアー A樹氷を見ながら会員の交流・親睦を深める。 |
山域・山名 | |
1日目 | 宮津 大江山 大江山(832.5m 二等三角点 千丈ケ岳) |
2日目 | 宮津 網野 依遅ケ尾山(540.0m 二等三角点 一ヶ尾) |
参加者 | CL:荻野幸夫、SL・運転:奥西一博、会計:中塚陽子、救護:那波陽子、 記録:池上清司、宮谷宣司、中塚光、土岡譲 合計8名 |
報 告 | |
第1日目 | (大江山) |
6:30 | 奥西宅出発、その後、参加メンバーピックアップ |
10:45 | 日本の鬼の交流博物館駐車場着、雪が多い。青空が見えるが雪模様。 |
スタート、ゴール地点 民家の屋根の大雪 日本の鬼の交流博物館駐車場 |
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深い雪の中をラッセルしながら進みます。翌日の依遅ヶ尾山に向けての良いトレーニングです。 |
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11:15 | 駐車場出発、登頂開始。除雪された町道を進む。時折日が差すが |
12:15 | 除雪区間終了、ワカン装着。 |
12:30 | 大江山に向け出発、町道を進む。 |
12:55 | 町道をはずれ、尾根筋に入りラッセル訓練をしながら進む。 |
13:20 | 時間切れのため、来たルートを引き返す。 |
13:40 | ワカン脱着。 |
14:20 | 日本の鬼の交流博物館駐車場着。 |
14:30 | 宿に向け出発 |
16:00 | “和み庵 空と海“に到着、まずは温泉で体を癒しました |
総歩行距離:6.6km 総歩行時間:3時間5分 | |
除雪されていない町道は、数名の若者先行グループがラッセルをしていてくれていたため歩きやすかった。時間的に大江山登頂は無理と判断、ラッセルの訓練のため町道をはずれ尾根筋に入る。深いところでは腰まで雪に埋もれながら進みました。 雪で大混乱のスタート、京都縦貫道に入ったのが9時、雪のためか、交通事故を3件見ました、動きのとれない車をたくさん見ました、とにかく時間がかかりました。 道中、大雪警報が出ている中、雪は大変多かったですね。大江町の民家の屋根には1.5m位は積もっていたでしょうか。雪下ろし、除雪で苦労している人の姿が見られました。 |
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第2日目 | 依遅ヶ尾山 |
9:30 | 宿を出発 |
10:05 | 除雪作業の終了地点に駐車する。 |
10:25 | 服装調整、ワカン装着し出発、踏み跡のない雪の中を進む。 |
11:05 | 依遅ヶ尾山登山口に到着(小休止)。 |
12:25 | 小休止(10分) |
12:55 | “ここでいっぷく”看板通過、雪景色、日本海が美しい。 |
13:20 | “鳥居まで500m“の広場を通過。 |
13:55 | 山頂到着。 登り:3時間30分 |
14:15 | 下山開始。 |
14:30 | “鳥居まで500m“の広場を通過。 |
15:50 | 登山口通過。 |
15:35 | 出発地点到着。 下り:1時間15分 |
15:50 | 帰路へ。 |
20:30 | 奥西宅着、お疲れ様でした。 |
総歩行距離:5.5km 総歩行時間:5時間10分 |
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前日のラッセル訓練が功を奏したのか、問題なく山頂を往復することが出来ました。 交代で先頭を担当しラッセル、先頭はしんどかった。 |
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膝まで埋まる雪の中の一列並んでの行軍。 登山口 |
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急斜面の登り、キツイ登りがいくつもありました。 “ここでいっぷく”の場所からの眺め、 日本海と周囲の山々が雪の中に美しく見えました。 |
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***もう一つの目的 美味しいかにとお酒を楽しんできました。*** 〜献立〜 1.先付け 2.前菜 3.地物松葉がにと地魚の御造り 4.地物松葉がに炭火焼き 5.茹でがに(地物松葉がに) 6.地物まつばがに天ぷら 7.かにすき、かにしゃぶ(地物松葉がに) 8.かに雑炊、香の物 9.フルーツ 日本海を眺めながらの食事、堪能しました。食べきれずに茹でガニは、お土産にしました。 残念ながら緑色のタグ(間人ガニのしるし)は付いていませんでした。 |
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山頂からの眺め、右に碇高原が見えます。海・山そして雪、尾根筋にある樹林、低い雲の間からの青空、日本海側の景色が全て見ることが出来ました。 ←依遅ヶ尾山 登山記念証 登山口にありました。 <<間人(たいざ)の由来>> 間人(たいざ)は、京都府京丹後市丹後町の地名。数ある難読地名の中でも著名なものの一つ。 聖徳太子の生母・間人(はしうど)皇后が蘇我氏と物部氏との争乱を避けて丹後の当地に身を寄せ、のちに当地を去るに当たって自らの名をこの地に贈ったものの、住民は「はしうど」と呼び捨てにすることを畏れ多く思い、皇后が退座(たいざ)したのに因み間人を「たいざ」と読み替えた、との伝承が残る。但し間人皇后が丹後に避難したとする記述は記紀に無く、由来には他にも諸説がある。(Wikipediaより) |